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星の王子さま Audible版 – 完全版

5つ星のうち4.4 1,160個の評価

本タイトルには付属資料・PDFが用意されています。ご購入後、デスクトップのライブラリー、またはアプリ上の「目次」でご確認ください。(アプリバージョン:Android 2.40以上、iOS 3.11以上)

「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」――。サハラ砂漠に不時着した孤独な飛行士と、「ほんとうのこと」しか知りたがらない純粋な星の王子さまとのふれあいを描いた永遠の名作。1953年以来、600万人以上の読者を魅了してきた、内藤濯の歴史的名訳で。この岩波文庫版には、『星の王子さま』誕生の秘話を満載したエッセイを収録。

登録情報

再生時間 3 時間 2 分
著者 サン=テグジュペリ, 内藤 濯(訳)
ナレーター 日高 のり子
配信日(Audible.co.jp) 2021/12/24
制作 Audible Studios
フォマット オーディオブック
バージョン 完全版
言語 日本語
ASIN B09NVPPFVD
ナレーションのアクセント Standard Japanese
Amazon 売れ筋ランキング - 50位Audibleオーディオブック (Audibleオーディオブックの売れ筋ランキングを見る)
- 1位フランス文学 (Audibleオーディオブック)
- 10,350位文学・評論 (本)

カスタマーレビュー

星5つ中4.4つ
1,160グローバルレーティング

この商品をレビュー

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お客様のご意見

お客様はこの小説について、以下のように評価しています: 本の内容は大変素晴らしく、考えさせられる作品だと高く評価されています。 ストーリーが深く、人間味があり、子供から大人まで一読する価値があると感じています。また、装丁やカラー刷りも美しく、かけがえのないひとつのバラに変化したと好評です。 一方で、翻訳については意見が分かれています。一部のお客様は訳し方が悪いのか読みにくかったという指摘もあります。誤訳や意訳が多く、原書の価値を損ねているような印象があります。

お客様の投稿に基づきAIで生成されたものです。カスタマーレビューは、お客様自身による感想や意見であり、Amazon.co.jpの見解を示すものではありません。

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26人のお客様が「内容」について述べています。26肯定的0否定的

お客様はこの本について、以下のような評価をしています: 内容は大変素晴らしいと高く評価しています。考えさせられるストーリーで、子どもから大人まで一読する価値があると感じています。また、話が深いため何度も読み直したい本だと感じているようです。ハードカバーの質感も高く、何度でも繰り返し読む価値があるという意見もあります。

"とても好きな物語で手元に何時も置いています。気になる子供や読んで欲しい人にプレゼントすることが多くオリジナル版はもってこいのサイズで再購入予定です。" もっと読む

"大切な何かとは何なのか。 静かな砂漠と、ファンタジーの狭間に、人間とは、心とは、他人との違いや、受け入れる事、認める事の大切さにジンワリと響く名作です。" もっと読む

"朗読を聞いた後でも読みたくなる作品です。生き方、考え方、物事の捉え方、優しい哲学書を読んだ余韻です。" もっと読む

"人間の本質を問う考えさせられる本でした。王子さまのような心をずっと持っていたい、王子さまのような気持を理解できる人になれたらと感じました。" もっと読む

16人のお客様が「装丁」について述べています。14肯定的2否定的

お客様はこの本の装丁について高く評価しています。美しい装丁で、かけがえのないひとつのバラに、キツネがただのキツネから友達に変わる様子を想像できます。中身のカラー刷りも素敵だと感じています。また、人間味があり、奥深い作品だと好評です。星の王子さまの物語のイメージで、子ども時代に懐かしさを覚えていた幼少期を思い出したという声もあります。

"かけがえのないひとつのバラに。キツネがただのキツネから「友達」に。「友達」になるには①少しずつ距離を縮める(慣れ)②話してはいけない(文字や言葉で野暮になる)③4時に来るなど規則ルールをもたせる(ワクワク感の醸成)と方法を語るのが奥深いし面白い。..." もっと読む

"...子供の時に一回でも読んでいれば 大人になった時の感想との違いを楽しめたかも。 すごく愛おしいというか 色々と考えさせてくれた本 なんか、忘れない本になりました。" もっと読む

"本は、きれいな状態でした。安く、入手でき、満足しています。" もっと読む

"星空に懐かしさを覚え毎晩眺めていた幼少期。訳者により本の印象はだいぶちがうものですね。kindleで3種読み比べてこちらが一番自分の心に合いました。今再び出会えて良かったです。" もっと読む

11人のお客様が「状態」について述べています。11肯定的0否定的

お客様はこの書籍について、名作として高く評価しています。大人も子供も楽しめる作品だと感じており、状態が良く満足しているようです。また、可愛くて可愛いと好評です。

"この作品の内容については、素晴らしい名作であることについて改めて述べる必要もないと思うが、..." もっと読む

"最初のページの文章が素晴らしいすね。「こなれる」とか。ああ確かに名作の予感。と思わせてくれます。 ページの角を折ったのは、 ┏━━━━━━━━━━..." もっと読む

"私が欲しかった星の王子様オリジナル版でした。小学生の頃図書館でみたままのものでした。中古ですがとても状態がよかったので嬉しかったです。" もっと読む

"この低価格でこれほど良い品物が購入出来た事は良かったと思います。 出品者の評価どうりで、信頼出来るお店だと思います!" もっと読む

5人のお客様が「素材」について述べています。5肯定的0否定的

お客様はこの書籍の素材について高く評価しています。ハードカバーの質感が高く、何度も繰り返し読みたいと感じています。また、純粋で柔軟な魂が美しいと評価されています。特に、中身の柔らかさや純粋さを高く評価しています。

"イラストの細かなところまで初版を復元したものと分かって、ぜひ手元に置きたい本だと思いました。ハードカバーの質感も高く、何度も繰り返し読みたいです。" もっと読む

"...「仲のよいあいてができると、ひとは、なにかしら泣きたくなるのかもしれません」は、その代表格である。純粋で柔軟な魂は、美しいものである。" もっと読む

"私は、正直、あまり理解できなかったでした。でも、その良さ、(悪い言葉を口にせず、打算的にならず、素直に、相手をありのまま受入れるなど)はなんとなくわかったような気もしました。..." もっと読む

"レビューも高く安心して買いました。 中身も非常に良く、良かったです。" もっと読む

10人のお客様が「翻訳」について述べています。3肯定的7否定的

お客様は、この本の翻訳について意見が分かれています。英語版も素敵な翻訳で、書き出しがすばらしいと評価しています。一方で、訳し方が悪いのか読みにくいという指摘もあります。誤訳や意訳が多く見られ、原書の価値を損ねているという声があります。また、活字が小さく細くて読みにくく、大人でも分からない単語を使っている点も指摘されています。特に子供向けでありながら大人でも分からない単語を使っていることなど、本の内容に不満を感じるお客様もいます。

"...新潮文庫版から読んでいるせいもあるかと思いますが内容がすんなりと入って来ないような感じもします。 台詞の語尾が荒々しく感じられる部分もありました。個人的な感想ですが、凄く違和感があります。..." もっと読む

"字も小さくて長いので時間が長いと読めないですが、懐かしかったです! 子どものころのおもしろい気持ちを思い出しました! 子どもたちに読もうと思いましたが少し難しかったようです。" もっと読む

"訳は新潮文庫の方が読みやすかったです。 こちらはハードカバーで横書き。コレクションとして購入。 いろんな表現で心に訴えかけてくる星の王子さまは何回読んでも飽きません。" もっと読む

"直訳で読みにくい。" もっと読む

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上位レビュー、対象国: 日本

  • 2023年9月22日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    この作品の内容については、素晴らしい名作であることについて改めて述べる必要もないと思うが、
    内藤濯氏による「星の王子さま」というタイトルについては、「星の王子さまとわたし」(文春文庫版がKindleでも読める)の中においても、何故「Le Petit Prince」という原題には無い「星の」という訳を選んだのかについては書かれておらず、名訳であるにもかかわらず、謎のままであるので、他の訳との違いについて、少しだけ述べておきたい。

    まず、原題「Le Petit Prince」の邦訳タイトルとしては、

    1.内藤濯氏による「星の王子さま」および、この訳が内藤濯氏によるものであることを明記して引き継いだもの
    2.「小さな王子(さま)」といった、原題に近いと翻訳者が考えたらしいもの
    3.「リトルプリンス」あるいは「プチ・プランス」と、カタカナに開いたもの
    大部分は、以上の3つのタイプの、どれかになっている。

    まず、1.の「星の王子さま」の場合、
    原題には、「星」を表すフランス語、具体的には、フランス語の原典の本文中に使われているのは、「planete」(惑星)、「asteroide 」(小惑星)、「Etoile 」(星・恒星)、拡大解釈して「Ciel」(空)といった語だが、(文字化けする可能性があるので、アクサン記号やトレマを使わなかったが、フランス語を普通に読める方であれば、脳内で記号を追加できると思う)、

    これらの語のいずれも使われていないので、日本における翻訳に関しての著作権の失効にともなって、様々な翻訳者が、自分が考えるところの、「正しい」日本語訳を出版することになったという状況がある。
    ちなみに、フランス本国では、著作権については、愛国者枠のような特別なものがあるので、フランス語原典の著作権よりも先に、日本での翻訳権がフリーになったという事情がある。

    次に、2.の「小さな王子(さま)」という訳は、
    内藤濯氏による翻訳を出版している岩波書店が、原題の意味は「小さい王子」であると表明していることもあって、これが正しい訳であると考える翻訳者もいるが、

    この訳は、バーネットによる「小公女」(アニメ版だと「小公女セーラ」)の原題が、
    「A Little Princess」であることと比較すると、正確なものではないことが容易に理解できる。
    「Le Petit Prince」の英訳タイトルは「The Little Prince」であり、不定冠詞ではなく、定冠詞が付いたタイトルである。

    バーネットの「小公女」は、主人公であるセイラが、「特定の」王女様のようにではなく、「一般的な」王女様のような、気高い心をもって生きようとする姿を描いたものなので、不定冠詞が付いたタイトルになっているのだが、

    サン=テグジュペリの「Le Petit Prince」は、「一般的な」王子さまについての話ではなく、
    語り手である飛行機の操縦士が出会った「特定の/特別な」王子さまについての話であるため、タイトルに定冠詞が用いられている。

    この違いを無視して、「Le Petit Prince」というのは「小さな王子」という意味です、と言ってしまうのは、
    日本語には品詞として「冠詞」というものが存在しないので、感覚的に理解しづらいのは仕方がないし、

    そもそも「冠詞」というのは、言語としての構成要素としては、「名詞」や「動詞」、それらを修飾して説明するための「形容詞」や「副詞」といったものと比べると、必ずしも必要なものではないので、
    日本語においてだけでなく、「孤立語」である中国語においても存在しないし、
    人工言語である「エスペラント」が公式に発表している、エスペラントの使い方のマニュアルでも、
    母国語において「冠詞」という品詞を持たない言語の話者は、エスペラントに訳する際には無理して冠詞を使わなくてもかまわない、ということには、なっているのだが、
    冠詞を持つ言語で書かれた作品をエスペラントに翻訳するのに必要なので、
    「文法上の性別」のような、存在する意味がない不合理なもの
    (例えば、ドイツ語では、「太陽 die Sonne」は「女性名詞」で、「月 der Mond」は「男性名詞」だが、
    フランス語では、逆に、「太陽 le soleil」は「男性名詞」で、「月 la lune」は「女性名詞」であるように、
    「文法上の性別」には、論理的・科学的な必然性があるわけではない。
    更に、ドイツ語には「中性名詞」が存在するが、フランス語には「中性代名詞」はあるが「中性名詞」は存在しない。)
    は無くした上で、定冠詞は1種類だけ残して、
    「Le Petit Prince」のエスペラント訳は、
    「La eta princo」になっているのだが、

    更に、「定冠詞」「不定冠詞」という品詞の存在の前提としての、
    「可算名詞」「不可算名詞」という概念が、日本語では希薄なので、感覚的に理解しづらいのは仕方がないのだが、

    それでも、「Le Petit Prince」というのは、「小さな王子」という意味です、と言い切ってしまうというのは、
    「Le Petit Prince」という、わずか『3語』しかない、原題を構成する単語のうち、
    「Petit」と「Prince」との『2語だけ』しか訳さずに、これが原題の意味です、と言い切っているわけだから、

    これでは、言わば、中学英語で最初の1ヶ月以内に習うであろう、「定冠詞」と「不定冠詞」との違いを理解できていない、と表明しているようなものでしかないので、いかがなものかと思わざるを得ない。

    最後に、3.の「リトルプリンス」のように、カタカナに開くものについては、
    山本庸一郎氏の翻訳では「ル・プチ・プランス」となっているのを例外として、
    基本的には、「リトルプリンス」のように、定冠詞を省いた訳になっている。

    もちろん、カタカナというのは、「日本語」を表記するためのものではあるし、
    日本語に訳す場合は、カタカナに開く際も、日本語は「冠詞」という品詞をもたない言語であるためか、
    多くの場合、日本人は「冠詞を省いて」訳しがちなのだが、

    (他の、同じような例としては、J. D. Salinger の「The Catcher in the Rye」を、野崎孝氏による「ライ麦畑でつかまえて」という邦訳があるにもかかわらず、村上春樹氏による「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という新訳で出したという例がある。
    この村上春樹氏による新訳については、村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書版が Kindle で読める)に詳しく書かれているが、村上春樹氏の新訳には、柴田元幸氏によるチェックが入っている。
    しかしながら、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という日本語タイトルよりも大きな文字で、「The Catcher in the Rye」という原題が、日本語タイトルの上に表示された表紙で出版され、
    2番目の「the」はカタカナに開かれているのに、最初の「The」は省略されていることが、表紙を見ただけで一目瞭然である。
    (日本語としてカタカナに開く際には冠詞を省略する、というルールが確立されているのであれば、
    「キャッチャー・イン・『ザ』・ライ」の、『ザ』は、何のために残しているのだろう?
    おそらくは語感のためであって、文法的な機能を持つものではないはずである。日本語は品詞として冠詞をもたない言語なので。

    ちなみに、「星の王子さま」の場合、原題は、「Le Petit Prince」という、わずか3語しかない単語で構成されているにもかかわらず、その中の1語である「Le」という「定冠詞」について「無視する」というのは、
    「星の王子さま」に出てくる有名なセリフの、ベスト10に確実に入るであろう、
    「L'essentiel est invisible pour les yeux.(かんじんなことは、目に見えないんだよ)」を思わせるものがあるのだが、
    (「星の王子さま」における「見える/見えない」は、キツネの言葉だけでなく、「子ども/おとな」の問題として、ウワバミの内がわや、箱の中のヒツジにおいても語られる。
    「Mais moi, malheureusement, je ne sais pas voir les moutons a travers les caisses. Je suis peut-etre un peu comme les grandes personnes. J'ai du vieillir.」と、
    「(物理的に可能、という意味での)可能」を表す「pouvoir」ではなく、
    「(技術として可能、「泳げる」とか「自転車に乗れる」とか、という意味での)可能」を表す「savoir」(技術として「知っている」ので、「可能である」)を使って、
    「je ne sais pas voir(見えない)」理由を、「les grandes personnes(おとな)」であることと結びつけているところが、「星の王子さま」全体を通じて、「子ども/おとな」「王子さま/ぼく」の対比として描かれている。
    つまり、「子どもだったころ(『星の王子さま』という本は、「献辞」で、「子どもだったころのレオン・ウェルトに」ささげられている)」は、ウワバミの内がわを(「心で」見ていたので)「見える」能力・技術を持っていたのに(「王子さま」は、『ウワバミの内がわ』のゾウを見ることができたので、「Je ne veux pas d'un elephant 『dans un boa』.」と答えているが)、
    語り手である「ぼく」は、「おとな」のようになってしまったために、箱の中のヒツジ(「a travers」は、箱「を通して」という意味)を見る能力・技術を失ってしまった、ということである。
    「見える/見えない」について、更に説明すると、
    フランス語では、日本語の「分かる・理解する」を意味する語として、「voir(見る)」と「comprendre(理解する)」)とがあるが、
    例えば、会話で相手の言うことについて「わかります(理解しました)」と答える際には
    (日本語では、時制における「過去」と「現在」との間の、認識している時間の間隔が近いので、「わかった」と「わかります」は、ほぼ同じように会話の中で使われるが、フランス語でも現在形と、ほぼ同じように現在完了形も用いる。)、
    「Je vois.」も「Je comprends.(あるいは、「J'ai compris.」)」も、同じように、「理解した・理解している」ことを表す返事として用いられる。つまり、「見える voir」ということは、「理解している comprendre」ということでもある。
    (英語でも、会話で「わかった・理解した」ということを表す表現として「I see.」が用いられるし、
    『漢書・趙充国伝』でも、「百聞は一見に如かず」と、「見る」ということと、「わかる」ということとを結びつけて考えられている。)
    「おとなの人たち」には、ウワバミの「外がわ」だけでは「ぼうし」に見えてしまい、説明しなければ、
    「じぶんたちだけでは、なに一つわからない  Les grandes personnes ne comprennent jamais rien toutes seules」のは、「(「心で」見ていない(キツネのセリフである「on ne voit bien qu'avec le coeur. 心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。」)ので)なかみが見えない」からなのである。)

    「The Catcher in the Rye」と、これだけ大きな文字で表示されている表紙において、
    最初の「The」は省略しても、次の「the」については省略せずに、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」とカタカナに開くというのは、あるいは、「語感のため」ではなく、最初の「The」については、もしかしたら、本当に「見えていないから」なのかもしれない。)

    この新訳の「文体」に関しては、「読者の好みの問題」であるが、
    「冠詞を省いた」ことに関しては、「リトルプリンス」と全く同じ「文法上の問題」が、
    「英語であれば」生じるが、この新訳には柴田元幸氏によるチェックが入っている以上、これが現在の日本のトップレベルの翻訳者の仕事の例であると考えてもよいと思う。)

    もしこれが、「日本語」での「リトルプリンス」ではなく、
    「英語」で、「Little Prince」という、
    定冠詞も不定冠詞も付いていないタイトルの作品であったとしたら、

    「タイトルだけ」から内容を想像する限りにおいては、
    良くて「スプラッターホラー」、最悪だと「カニバリズム(人肉嗜食)」という、子供が読んだら「トラウマになる」ような内容の作品だろうと思う。

    何故なら、「Prince」というのは、可算名詞なので、これに定冠詞も不定冠詞も付けずに用いると、
    通常は「可算名詞」(個数)であるものを、敢えて「不可算名詞」(量)として用いるという用法にあたるので、

    例えば、「私は犬が好きです。」は、通常は「I like dogs.」と、複数形を使うか
    (「私は『(犬派・猫派の、犬派という意味での)犬』が好きです。」であれば「I'm a dog person. 」という言い方がある)、
    特定の犬についてであれば、「I like the dog(s).」であるが
    (「I like the dog.」は、「犬という『種族・存在』が好きです。」という意味にもなる。)、
    これを敢えて「不可算名詞」(量)として、定冠詞も不定冠詞も付けずに単数形で、「I like dog.」と言うと、
    「一匹二匹といったかたちでは数えられないような状態になっている犬」、
    すなわち、「私は(食材としての)『犬(肉)』が好きです。」、という意味になる。

    「犬食文化」がある国が存在するので、これは英語として「正しい」表現であり、

    (会話だと、「dog」か「dogs」かは、単語の末尾の音は、普通のスピードで話すと「リダクション」ということが起こるので、末尾の「s」の音は、一般論で言えば、ほとんど聞こえないのだが、
    この文の場合は、一番重要な、この単語さえ言えれば会話が成り立つ、という単語が「dogs」なので
     (「何の動物が好きですか?」という質問に対する答であれば、「dogs」ではなく「dog」であっても、
    文脈から、言いたかったのは「dogs」ということだろう、と理解できて、聞き流してもらえる、とは思う。)、
    この文の場合、「dog」は、文の中で「強く発音」されてしまい、「注意して聴かれている」単語であるのに加えて
     (他の部分は、会話だと、文脈から予想できる部分が多いので、ほぼ大部分は、強弱のアクセントがある音のかたまりとして聞き流していて、強調して発音される部分以外は、一つ一つの単語を細かいところまで注意して聴いているわけではないので、文法的には間違った英語であっても、それほど問題にはされない。)、
    「dogs」ではなく「dog」と言った場合の、「(特に愛犬家から、食文化に対して否定的なイメージを持たれるような)特別な意味」が存在しているため、
    文脈によらずに単独で、「I like dog.」という文を見たり聞いたりすると、変に思ってしまう、ということになる。)

    日本語で「私は鰻が好きです。」と言った場合、通常は、食材あるいは料理としての「鰻」(うな丼とか、ひつまぶしとか)について述べているのと同じである。
    ちなみに、鰻というのは、「鱗のない魚」に該当するので、宗教によっては食のタブーにあたる場合もあるが、日本では普通に食べられている。

    上記の「可算名詞」である「dog」を、敢えて「不可算名詞」として用いた場合と同じ発想で、
    「可算名詞」「不可算名詞」という区別で世界を見ている英語圏の話者にとっては、
    「Little Prince」という(可算名詞に、敢えて冠詞も付けず、複数形でもない)タイトルからは、
    何故、この王子さまは、一人二人というかたちで数えられないようなかたちで記述されているのだろう?
    一人二人というかたちでは数えられないような状態(肉塊)になっているのか? 
    ということを考えさせる可能性があるので、
    「タイトルだけ」から(悪意をもって)想像すると、「スプラッターホラー」、あるいは、「カニバリズム(「不可算名詞」の「dog」の意味と同じように、「食材」になっているのか?)」という、子どもが読んだら「トラウマになる」ような内容を想像させかねないものになっている。

    もちろん、「Little Prince」というのは「英語」であって、
    「日本語」の「リトルプリンス」とは意味が異なるのだが、
    おそらく、標準的な日本人の英語力では、
    「ザ・リトル・プリンス」であれば、そこから「The Little Prince」と英訳できても、
    これが、「リトルプリンス」からであれば、「Little Prince」と英訳してしまい、
    人工知能や機械翻訳ツールを使わずに、
    自力で「リトルプリンス」を「The Little Prince」と英訳するのは、
    日本語では「冠詞」を意識する習慣が無いので、難しいだろうと思う。

    実際、「日本人が使いがちな英語」の例として、
    「I like dog.」という、「正しい英語」が挙げられるという現実があり、
    日本人の中には、自分が英語で話した「経験」からすれば、「I like dog.」でも、一応は通じるから構わないし、「文法」を気にしすぎて話せない、というよりは、ボディランゲージも使って、とにかく話すことの方が大切だ、と思っている方は、かなり多いようだが、

    現実問題として、日本人の『高校卒業レベル』の英語力(TOEIC で550点、英検2級、程度)では、
    「文法」以前の問題として、英語のネイティブスピーカーだと、『11歳ぐらいの子供のレベル』程度の「語彙力」しかないし、
    話せない理由の大半は、(意識してこなかったと思うが)「日本語」を覚えた時と同様に、日常生活の中での、視覚や聴覚や、その時の場面・文脈・状況等、から得られる、膨大な情報をフルに使って、一日中情報を浴びるような環境で、こういう場合に使う「音のかたまり」、更に「文字のかたまり」として、自然に覚えていくのではなく、
    (日本人が自然に日本語を覚えていくにあたって、特に努力しているつもりはなくても、1日あたり16時間起きているとして、1年間365日で、18年生きていれば、それだけで、10万時間以上「日本語を浴びる」ような生活してきたことになる。)
    生活の中での、コミュニケーションの道具としてではなく、一週間に数時間あるだけの、中学・高校で6年程度「英語の授業の中だけ」で、という(これでは無理ゲーに近い、と私は個人的には思っている)「非効率的な」方法で覚えているので、その結果、
    単語・句動詞・慣用表現といった、英語での「語彙力」が、単純に、かつ決定的に不足しているからであって、

    (日常生活で使う英単語の90%は700語程度、95%だと2800語程度だとしても(これらの語数には、動詞の活用形や名詞の複数形等は、当然含まれていない)、
    それらの単語を組み合わせて使う「句動詞」や「慣用表現」について理解していなければ、「実質的には」使えないし、
    ニュース等で「何について話題にしているのか」を理解するには、95%に含まれない残りの5%の単語が必要になることが多いし、
    英語のネイティブスピーカーであっても、大学進学を考えているようであれば、意識的に語彙力を増やす努力を行なっている。

    とは言っても、英語とラテン語とを比べると、ラテン語では「奪格」とか「与格」といった「格変化」で表すものが、英語では「from〜」「 to〜」のように、格変化しなくても前置詞を付けるだけで表せるので、ラテン語のような膨大な数の格変化(どのパターンの格変化をするかは、「属格」のかたちを見れば分かるので、ラテン語の辞書では、ars/artis のように、見出し語が属格併記というかたちになっている)を覚えなくて済むので、英語は比較的学習が楽な言語ではある。
    (それに、日本語のように、ひらがな・カタカナ・ローマ字に加えて、常用漢字だけでも2000字以上ある言語に比べれば、英語の文字の種類は少ないので、漢字文化圏以外の方にとっては、日本語を学ぶのに比べれば、英語を学ぶ方が遥かに楽なはずである。)
    フランス語でも、「vouvoyer」を「tutoyer」で、かつ「nous」を「on」で代用すると、規則動詞は(文字で表記すると活用変化しても)「音声上は」一つの音で済む(実質的に活用変化しない)ので、口語では、そういう「楽な方向」へとシフトしつつある。)

    何か特定の事柄について話したいのであれば、一つの目安としては、その事柄について「『英語版の』Wikipedia」で、説明に使われているぐらいの「語彙力」は必要になってくるし、
    それぐらいの語彙力がないと、毎回天気の話のような、どうでもよい話しかできない、ということになってしまう。
    本気で語学を身に付けたければ、「寝食を忘れる」ぐらいの、モチベーションの高さと、それを保ち続けるための、長距離ランナータイプの精神的な体力が必要なので、
    「語学学習そのもの」が楽しい、というのでなければ、
    その言語を話す「恋人」を作れ、と言われていた時代もあったが、
    現代であれば、その言語を話す「オタク仲間」を作る方が効果的かもしれない。
    また、タイパを重視するような価値観というのは、「語学を習得する」ことに限れば、
    才能に恵まれていないことを自分で認めたくない場合の言い訳にしか使えないので、
    ある屈折語の全活用形を一度聞いただけで完全に覚えてしまうような、1時間ぐらいある交響曲を1回聴いただけで完全に耳コピできるレベルの「天才」でない限りは、「誰であっても多くの時間が必要」で、「(語源から覚えるのは当然として、)ショートカットできない」し、更に原理的には、ゲームをクリアするように「これで終わり」、ということが、永遠にあり得ないようなものを認めないのは、残念ながらマイナス要素にしかならないと思う。
    (11歳の日本人の子供が「日本語」で、どの程度の内容について話せるかを考えてみれば、レベルが想像できると思う。普通の小学生の語彙力では、健全な知的能力を持つ大人のレベルの、抽象度が高い、難しい話題に、ついてこれないのは当然である。
    というか、実際には、日常生活での「常識レベルの英語の語彙」さえ、特に「音声」として理解できないはずである。小学校レベルの「算数」の授業でさえ、映像無しで英語の「音声だけ」聞いたのでは、何について話しているのか理解できない方が多いと思う。)、

    更に、とにかく話すことが大切、というのは、
    『どのような言葉を使うか』によって、映画「マイ・フェア・レディ」のように、
    話し手の『社会的な階級認定』が行われているという、残酷な「現実」が「理解できていない」だけである。

    「話すだけ」なら、その国に生まれた人間であれば、基本的には誰でも話せるし、問題になるのは「文法 grammar」というよりも、「語法 usage」を理解していないことの方である。
    日本では英語の授業で「文法」は習っても、「語法」(どういう社会的な階層・どのレベルの教育を受けているような人が、どういう場面(フォーマルな場面か、仲間内でのくだけた表現や、俗語等)で使う言葉であるか)についてまでは習わないはずである。
    ある英語講師が(英語のネイティブ・スピーカーであったとしても)、どういう人物(社会的な階層や、生徒との精神的な距離感等)である故に使う言葉であるか、といった要素まで含めて理解できないと、その「usage」でのニュアンスまでは理解できないまま、英語を覚えたつもりになってしまう。
    (「語法」について、「日本語」での例としては、
    例えば、女性に対する呼びかけとして「お嬢ちゃんは」という表現は存在するが、
    この表現は「文法的には」正しいが、状況・相手(との関係)によって、「使える場面が限定される」ものであり、何時でも誰に対しても使える表現ではない。
    こういった、ある言葉・表現が、どういう人が、どういう状況で使う言葉・表現であるか、というのが「語法 usage」である。)
    なお、「語法」というのは、当然ながら、その時代に対応するかたちで変化するので、こういう言葉・表現は、文法的には正しいが、語法的には古い表現だ、ということも起こる。
    『オズの魔法使い』に出てくる「How do you do?」のような、古風で丁寧すぎる表現(現代英語であれば、普通は「Nice to meet you.」を用いる)なら、まだマシであるが、無教養でガサツな言葉を使えば、当然、無教養でガサツな人間として見られてしまう、ということである。

    観光旅行程度なら、一応は通じるのだから、「旅の恥はかき捨て」でも良いのかもしれないが、
    前提としての「比較の対象」が、「文法を気にしすぎて『一言も話せない』よりはマシ」というだけであり、
    『日本人はシャイだから』英語を一言も話せない、という、もっともらしい言い訳が存在するが、
    その方が、「日本語でなら」話せるのであれば、英語では話せないのは『性格の問題』ではないし、
    「コミュニケーションのための道具」である生きた言語としてではなく、「単なる学校での(受験)勉強」としてしか、英語を学んでこなかったから、というだけであって、

    ビジネスパーソン等で、相手から社会的に軽く見られたくないのであれば、
    「ネイティブスピーカーではないのだから」という理由で好意的に見てもらえるとは必ずしも限らずに、
    むしろ、その場では通じても、露骨に人間としての扱いが違ってくる場合があるので、
    こういう『社会的な階級認定』が行われているという残酷な「現実」は、知っておいた方が良いと思う。

    日本人は「可算名詞」と「不可算名詞」との違いについて、日本語では、それほど意識しないので、

    (清水義範氏の「永遠のジャック&ベティ」(講談社文庫版が Kindle で読める)では、中学英語の教科書に出てくるような例として、
    「一杯のコーヒーか、または一杯のお茶を飲みましょう」という会話文が出てくるが、
    このように翻訳先の言語での使い方を無視して「不定冠詞」を「そのまま直訳」するのは、通常は「下手な」翻訳であり、「不自然な」日本語になるし
    (例外として、「そのまま直訳」というのが効果的だったものとしては、
    『悪の華』で有名な詩人のボードレールが、エドガー・アラン・ポーの作品を仏訳する際に、
    フランス人にとっての『エキゾチシズム(異国趣味・異国情緒)』の表現として、
    英語で書かれた『The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket』の、冒頭の最初の1文を、
    「Mon nom est Arthur Gordon Pym.」と、英語で使われている「単語」を、敢えて「そのまま直訳」
    (通常のフランス語だと、「My name is」の仏訳は、「Je suis」か、フォーマルな言い方だと再帰代名詞を使って「Je m'appelle」になる。)した例が、
    「言葉の専門家」である「詩人」ならではの仕事、として有名だが、
    こういった『特別な意図』が無ければ、普通は「そのまま直訳」というのは「不自然で、こなれていない、下手な翻訳」になってしまう)、
    清水義範氏は、これを日本語としては(笑うべきものとして)否定的に描いている。)

    その結果として、英語では「文法的に」冠詞を必要とする、と言うよりも、「見ている世界の在り方が異なる」ので、冠詞が無いと「気持ちが悪い」、という感覚が、わかりづらい。

    「可算名詞」の場合、「複数形」を使う、というのは、「不定冠詞」を使うのと「同じ感覚」の上に成り立っている。
    不定冠詞「a(n)」の意味を、「1つの」という意味だと、日本では、ほとんど全員が習うと思うが、
    それでは、「1つの」という意味でも、
    「不定冠詞」の「a(n)」と、「数詞」の「one」とでは、どこが違うか、というと、

    「不定冠詞」が付く(ことを文法的に求められる)という意味は、

    『まず第一に』(上位概念として)、
    それが「可算名詞である」という意味であって

    (このことを日本では最初にきちんと教えないという理由は、
    「日本語」では「可算名詞」という概念が重要ではないし、
    日本人にとっては、「冠詞」というのは重要ではないから、というだけでなく、

    英語について、文法的なことについても教えるにあたって、
    日本語の文法についてさえ、どれだけ理解できているか怪しいような、中学1年生ぐらいの生徒に、
    日本語とは異なる複数の言語についての言語学的な知識がないと理解するのが難しい、「可算名詞」「不可算名詞」という概念を教えても、理解できないだろう、ということになるのは当然であるにしても、

    そもそも、英語(外国語)を学ぶということの意味は(最近はコミュニケーションの道具として使うことを念頭に置いて教えるようになってきているが、その意味でも根本的なところで)、
    自分たちとは異なるかたちで「世界の在り方」を見ている「異文化」について、外国語という「言語」を学ぶことで
    (人間の「思考」というのは、「言語」による部分が大きいので、
    他言語において「概念」の在り方そのものが異なると、「翻訳」できないし、
    自分たちが使っている言語だけでは「理解する」ということさえ難しくなる)、
    異文化と比べることによって、自分たち自身の文化についても、より深く理解できるし、
    自分たちの文化以外を理解できない、という、視野の狭さから自由になるためだ、ということを、
    教えている教師の側も含めて、理解できていないからだと思う。
    (今後、AIを使えば簡単に「言葉だけは」翻訳できることで、「異文化理解」に基づく「総合的な語学力」というのは、残念ながら、全体としては低下していくことになるのだろうと、私は予想している。)

    初めての英語の授業では、まず最初に「これから(日本語とは異なる)英語を勉強していきましょう」ということから始めるはずだが、
    この「英語」(外国語)を学ぶことの意味を、教える側の教師さえ、自分が何を教えているのか理解していないのであれば(例えば、英語の音のかたまりを「日本語の音に置き換えて(イコール「カタカナ」で)」のように、「日本語意識」の範囲内で理解するようなものでしかないのであれば)、
    最も重要な基礎の基礎を欠いている状態で何年積み重ねていっても、「英語を日本語に訳さずに、英語のまま理解して、英語で考えて話す」といったことが出来ないのは、仕方がないと思う。
    発音に関して言えば、日本人は「日本語のカタカナ発音」で「はっきりと」発音しがちなので、「r」と「l」の区別や「th」といった「子音」の発音以上に、英語の「母音」の発音が下手なのは、口を大きく開けすぎるからだと思う(フランス語の発音でも同じことが言える)。口の中の空間の変化と舌の位置の変化とで発音するので、曖昧母音や連続する子音の発音は、これができないと難しい。幼児なら別だが、日本語の発音が身についた後なら、細かい技術的な指導が必要になるし、自分で正しく発音できない音は、リスニングも難しくなる。高校生以上なら、英和辞典と単語帳を使わずに、英英辞典のみを使って「正しい発音」で「音読」しながら多読および暗唱するだけで、受験英語ではない、実用英語が使えるようになるかもしれない。)、

    『その次に』(下位概念として)、
    それが単数であれば「不定冠詞」として「a(n)」を付けるし、複数であれば「複数形(単語の後ろに「s」を付ける等の変化がある)」を使う、という意味である。
    (更に詳しく説明すると、ここからは言語学の専門家向けの話になるので、読み飛ばしてもらって構わないが、
    言語学においては「ゼロ」(発音上は存在しないが、理論上は存在すると見なすもの)という概念があり、
    英語の複数形においては、「限定詞」として「ゼロ冠詞」が付いている、とする考え方がある。)

    更に、こういう基本的な理解の上に、各場面でのニュアンスの違い、というものがあるが、
    そういうものは、その場面で状況から判断・理解して覚えていけばよいものであって、
    そういう状況から学べないのであれば、原理的に、英語を母語とする人であっても、英語を理解できない、ということになってしまう。

    また、英語を母国語としない学習者だけでなく、英語のネイティブスピーカーであっても、
    新しい単語(一例として、インターネットでの「電子メール」は、郵便での物質的な「手紙」と同じ扱いだと思うか? 等。
    郵便における「mail」は、「一通の手紙」という意味か「郵送システム」という意味かで、「可算名詞」になるか「不可算名詞」になるかという扱いが変わる)が現れると、
    それが「可算名詞」であるか「不可算名詞」であるかが判らないと、英文が書けないので、必ず、質問・議論になるし、

    まともな辞書であれば必ず、「可算名詞」「不可算名詞」の表記および、「可算名詞の場合での」「不可算名詞の場合での」意味と使い方、についての項目がある。

    英語を使うにあたって、こういうものを必要とする、という感覚は、
    「不定冠詞」の意味を「1つの」としか習わないような日本人にとっては、
    日本語では「1つの」と付けると、「永遠のジャック&ベティ」での会話のように、むしろ「不自然な日本語」になってしまうので、
    冠詞を必要とすることが、感覚的にわかりづらい、という説明のために、
    「dog」を敢えて「不可算名詞」として使った場合は、という、ショッキングな例を挙げてみたが、
    この例は、検索すれば簡単にヒットするはずである。

    繰り返しになるが、山崎庸一郎氏の訳だと、「ル・プチ・プランス」と、定冠詞も含めてカタカナに開いているので、このような問題は生じない。

    原題が「Le Petit Prince」という、わずか3語しかないもので、その中の1語が「冠詞」なので、
    日本人が感覚的に理解しづらい「冠詞」についての説明に多くを費やすことになってしまったが、

    以上の理由から、
    1.「星の王子さま」、
    2.「小さな王子(さま)」、
    3.「リトルプリンス」、という、
    3種類の代表的な訳について、それぞれの問題点を見てきたが、

    私自身の感覚では、1.の「星の王子さま」か、
    あるいは、実際には存在しないのだが、カタカナに開く場合は冠詞を省略する、というルールが確立したものとして存在しているのではなく、特に「定冠詞」については、そのままカタカナに開いても良いのであれば、
    「ザ・リトル・プリンス」という、「定冠詞も付けたかたちで」英訳のタイトルをカタカナに開いたもの(フランス語を、そのままカタカナに開いても、意味がわからない方が、英語をカタカナに開いた場合よりも多いと思うので)、といった訳が良いのではないかと感じている。

    内藤濯氏が「星の」と訳した理由が書かれているものが、どこにも残されていない以上、私の想像でしかないのだが、
    内藤濯氏は、原題にある定冠詞のニュアンス(「あの特別なものとして私が意識していて特定される」、小さな王子さま)を、
    説明的にではなく、不自然な日本語にならないように、
    ある意味で詩的な日本語のセンスによって、
    本文中に出てくる、王子さまの特徴を表すものから、「星の」という言葉を選ぶような、
    詩人の魂を持っていたのではないかと思う。

    なお、原題にある「Petit」の部分については、
    フランス語では、物理的に「小さい」という意味と、年齢的に「小さい」という意味とがあるので、
    (「献辞」での、「『子どもだったころの』レオン・ウェルトに」の原文は、『quand il etait petit garcon』である。)
    「星の王子『さま』」と、漢字の「様」ではなく、ひらがなの『さま』という表記にしたことで、
    『指小辞・縮小辞(「〜ちゃん」のようなもの)』のようなニュアンスを持たせているのではないかと思う。

    内藤濯氏の訳には、誤訳もあるし、「文体が古い」という方もいるが、

    (この箇所は誤訳(あるいは意訳)ではないのか?、というのが皆無であるような「翻訳」作品というものが、どれぐらいの割合で存在しているのだろう?
    ある言語での表現を、他の言語に翻訳する際に、意味の範囲が完全に重なって、一対一で対応する語がある、という状況ではない限り、「誤訳」というよりも、元の言語での意味もニュアンスも理解できるのに、翻訳先の言語では、説明的な表現を用いずに読みやすくしようと思うと、「表現しきれない」という「もどかしさ」を感じる翻訳者というのは、元の言語と日本語との両方について深く理解できていればいるほど、多いと思う。
    このレビューでは、基本的にはタイトルで使われている部分の「翻訳」についてしか取り上げていないが、
    (「見える/見えない」の、原文でのニュアンスの説明のために「savoir」等については、少し解説したが、)
    それでも、これだけの分量になってしまったぐらいなので、
    「星の王子さま」の翻訳では、よく問題にされる、「apprivoiser」については、敢えて触れなかったが、
    この「apprivoiser」というのは、キツネやバラとの関係において、極めて重要な意味を持つ語である。
     
    また、文体については、例えば「Les serpents boas」を「ウワバミ」と訳しているのを、表現が古い、とか、わかりにくいと感じる方もいるようだが、
    この岩波少年文庫版は、サン=テグジュペリ自身によるカラーイラスト付きなので、普通に読んでいれば「ウワバミ」の意味をイラストから学習する、といったかたちで、子どもが自然に日本語の語彙を増やしていくプロセスそのもののかたちで意味を覚えるし、
    更に、子どもというのは、基本的には、新しく何かを覚えて出来るようになる、ということを「楽しい」と感じるものなので(「こうすれば走るのが速くなれる」とか、「ゲームで新しくスキルや魔法を覚える」とか)、
    本の内容や、本を読むこと自体が楽しければ、本を読むにあたって、新しく知識を身につけるために、
    「わからなければ辞書を引く」という習慣も身に付くと思うのだが、
    「わからなければ辞書を引く」という習慣を、敢えて意図的に「身に付けさせない」というのであれば、「過保護」というよりも「児童虐待」であると思うし

    (ただし、これからは、「辞書を引く」どころか、「ググる」ということさえせずに、「AIに訊く」というかたちで、「自分自身で元になっている情報を調べて確認するという能力」において、「情報弱者」でしかない

      (「AI」が示す情報が「常に正しい」というわけではないし(「AI」、特にディープ・ラーニングによるものは、「正しいかどうか」ではなく、「統計的な確率」に関してしか、判断の基準になるものを持たない。)、「AI」にしろ「旧メディア」にしろ「インターネット」にしろ「SNS」にしろ、何が「正しい」情報であるかということを「判断する能力」がなければ、どのメディアであっても「情報源」として役に立たない。
    インターネット上の情報は、旧メディアよりもチャンネル数が多いので、旧メディアでは報道されない真実が語られているとして、盲信する人もいるが、いくらチャンネルが多くても、「認知バイアス」が存在するので(「libenter homines id quod volunt credunt. 人間は自分が信じたいと望むことを喜んで信じる。」 カエサル『ガリア戦記』第3巻18節)、
    結果として、利用するチャンネル数は、「実質的には」旧メディアと変わらない(自分が見たいものしか見ない)上に、
    チャンネル数が多いということは、その分、その情報が正しいものであるか検証するのが大変で、いくら道具として優秀であっても、「人類そのもの」の知力が上がっているわけではないので、高性能であるほど、使いこなすのが難しくなるのは、高性能な「道具」に共通する特徴でもある。)

    ような人の割合は、(「日本語」の情報しか使えない「日本人」だけでなく)世界中で増えていくのだろうと予想できる。)、

    特に「日本語」で、「辞書を引く」という習慣さえ持たないような人が、その延長線上にある行動として、
    例えば、SNSでの情報を、「元情報が事実に基づいたものであるのかどうか、複数の情報源を調べて確認する」ということを行なわずに、
    「リツイート等で誤情報を拡散する」ような人間に育つのは、
    単なる知性の低さ、ということだけではなく、
    情報源について「確認する」ということを「習慣」として「身に付けさせてもらえなかった」、という、
    学校で、というよりも、「家庭」での「教育環境の劣悪さ」の「被害者」

    (「親」が「辞書を引く」という「習慣を持たない」のに(残念ながら、これは「読書量の少なさ」と並んで、「国語力の低さ」と直結するし、「国語力」が低いと、「数学」の「文章問題」等、「何を問われているかについての理解力」を必要とする、あらゆる分野での学力の低さの「根本的な原因」になってしまう。)、
    子どもに「勉強しなさい」と言っても、子どもは「親の真似」をして育つので、親自身が楽しんでいないようなこと(「勉強」とか)について、親の言うことをきいて育つはずがないのは「当然」である。自分にとっては楽しくないことを、誰が真似したいと思うのだろう?)

    なのだろうと思う。)

    辞書なしでもフランス語で原文を読めて、フランス語の「ニュアンス」まで分かるレベルの方なら理解できると思うが、
    元々のサン=テグジュペリの文体自体が、現代のフランス語と比べると「古い文体」なので、
    そういう文体を、「現代の人が読みやすいようなかたち」で訳すというのは、大体においては、原文の「格調」までも翻訳するのに、失敗することになるので(更に、「翻訳」の範囲を超えると「翻案」に近いものになってしまう)、良し悪しの両面があると思う。

    本当にこの作品が好きな方であれば、対訳・解説付きのものもあるので、できればフランス語の原文で読んでみてほしいのだが、
    英訳のものでは、Katherine Woods によって初めて英訳されたものが、
    英訳版の「The Little Prince」の古典として、今でもこの訳を求める人が多いように
    (もし「英語学習」のために、この作品を「英訳版で」読んでみたいのであれば、
    私の場合、外国語学習において最大の壁になるのは、「その言語で読んでみたい・話してみたい」と思えるような「コンテンツ」がないと意欲が続かない、ということなので、そういう気持ちも理解できるし、
    格調が高いとの定評がある、Katherine Woods による英訳版であれば、お薦めできるのだが、
    基本的には、この作品の「原典はフランス語」なので、英語での「表現のニュアンス」が理解できるようになってから、「英訳」版を読むか、
    あるいは、「英語学習」が目的であれば、「The Little Prince」ではなく、「原典が英語である作品」を読んだ方が良いと思う。

    この作品の英訳版は複数あるので、中には、フランス語からの「翻訳」として劣悪なだけでなく、「英語そのもの」として、信じがたいレベルで劣悪な英文のものも存在するので

    (例えば、「献辞」の部分だけでも(第1章以降は、推して知るべしである)、レオン・ウェルトという「男性」についての説明で、原文では、「おとな」を意味する「grande personne」の「personne」は、「女性名詞」なので、代名詞で受けるのもフランス語では女性代名詞の「elle」を使うが、
    それを英訳する際に、意味内容を考えずに、そのまま英語の女性代名詞「she」を使って「直訳」することで、
    普通に英語で読んでいると、レオン・ウェルトは性転換をしたの!? となってしまい、
    その後で更にレオン・ウェルトを意味する、男性代名詞「il」を「He」で受けることで、性別が混乱する上に
    (英語では、名詞に「文法上の性別」は存在しないので、まともな翻訳者であれば、代名詞が意味する内容から判断して、たとえ原文では「elle」であっても、英訳する際には「he」にするといった、読者を混乱させないための工夫をする。)、
    「grande personne」を「grown-up(おとな)」と英訳せずに「great person(偉大な人)」と英訳することで、「enfant/grande personne(子ども/おとな)」のことを問題にしているのに、意味不明になってしまう(更に読み進めると、第1章では、「grandes personnes」を「grown-ups」と普通に訳せているのに、「献辞」のところでは意味が理解できていない)、といった、
    フランス語からの翻訳能力以前の問題として、内容が理解できていない、あるいは根本的に常識を欠いているような英訳版もあるし(Kindleで読めるものとして存在する)、
    こういう英文を読むと、中学生レベルの英語力でも、レオン・ウェルトの性別(she/he)が変化するのは変だ、ということぐらいは分かるはずなのに、よほど英語力が低いのか、あるいは「日本語でも」常識を欠いているのか、
    そのようなテキストに「英語学習の教材」として、高評価を付けて、お薦めしているようなカスタマーレビューまで存在しているという状況がある。)、

    英語でのニュアンスが判別できないレベルの英語力しかない状態で読むのは、英語学習の教材として「適切でないもの」を選びかねない、という「リスク」がある。
    ちなみに、現在は様々な英訳版があるが、マリリン・モンローが「The Little Prince」を読んでいた時代には、英訳版は、 Katherine Woods によるものしかなかったはずである。)、

    邦訳のものとしては、内藤濯氏のものが、古典として親しまれてきたものなので、他の翻訳者の訳を読む前に、最初に読む邦訳としては、まず、これから読むのが、私個人としては、お薦めである。

    どの邦訳が良いかについて書かれているサイトも複数あるが、そういうサイトでの書き手が、

    フランス語でのニュアンスまで分かるレベルで、訳の正確さについて判断できるのか?
    (東大の大学院を修了しているような翻訳者であっても、「Le Petit Prince」というのは「小さな王子」という意味だという、中学英語の基礎の基礎レベルで外国語学習の意味を理解できていない・どの言語を使うかによって、世界のとらえ方自体が異なることになるという、異文化理解の基本が分かっていないような翻訳者まで存在しているのに、そういうサイトでのレビューが信用できるのか?)

    あるいは、日本語に訳された場合の、日本語表現のニュアンスの違いを、本当に理解できているのか?
    (例えば、日本語では、一人称の表現がいくつもあるので、翻訳する際に、ある登場人物の一人称として何を選ぶか(「ぼく」「僕」「俺」「オレ」「私」「わたし」等)だけでも、かなり印象が変わってくる)
    といったことは、特に、まとめ系のサイトの場合、一般論として、疑ってかかってもよいと思う。
     
    また、どうせ原文が読めるわけではないし、訳が正確かどうか分からないのだから、誰の訳であっても同じだし、値段が安いものでいい、という考えは、翻訳者に対しても、作品に対しても失礼だし、
    対訳付きとか、CD付きといった特別な仕様のものでなければ、値段としては数百円以内の差でしかないのだから、そういう投げやりな考えで選んでも、結局は作品自体を十分に楽しめないのではないかと思う。

    ある訳に満足できなくて、他の訳を求めるにしても、基準になるものが最初に必要になるので、
    この内藤濯氏訳の「星の王子さま」は、そういった基準になるものであると思う。
    28人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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  • 2025年3月15日に日本でレビュー済み
    大好きな本です。
    いろいろな事を深く考えさせられます。
    挿絵もとても可愛らしく綺麗で美しいです。
    美しい物語だと思います。
  • 2023年1月8日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    かけがえのないひとつのバラに。キツネがただのキツネから「友達」に。「友達」になるには①少しずつ距離を縮める(慣れ)②話してはいけない(文字や言葉で野暮になる)③4時に来るなど規則ルールをもたせる(ワクワク感の醸成)と方法を語るのが奥深いし面白い。他にも「星は星として佇んでいるだけなのに勝手に大人が意味を持たせている。そしてそれに納得している」「大事なものは見えない、砂や星に隠れている」等、中年になった今読んでも深い言葉が詰まっている。
    5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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  • 2024年3月5日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
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    👍🏽

    2024年3月5日に日本でレビュー済み

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  • 2021年3月13日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    ペパーホワイトだとでる挿絵No.1919が真っ黒です。(もう一か所ありました)
    どうして?
    1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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  • 2022年11月24日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    とても好きな物語で手元に何時も置いています。気になる子供や読んで欲しい人にプレゼントすることが多くオリジナル版はもってこいのサイズで再購入予定です。
    3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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  • 2024年2月18日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    読むたび勝手に涙が出てくる。
    なんでかな?
    何度読んでもわからない。
    3人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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  • 2022年12月2日に日本でレビュー済み
    Amazonで購入
    いろんなことを少し大袈裟に話してしまうトゲが4つある薔薇が好きです。
    いつの日かアフリカの砂漠で星の王子様に会えるように、景色を目に焼き付けておきたいなと思いました。
    6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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  • HeyoPrinsen
    5つ星のうち5.0 Great product
    2017年9月3日にアメリカ合衆国でレビュー済み
    Amazonで購入
    It's Le Petit Prince in Japanese! The print is neat and easy to read. I like the choice of font they used for this translation. The book itself is well made and has really good quality paper and materials. I love this book.
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  • Kimberley Jones
    5つ星のうち5.0 Hapoy Customer
    2017年10月5日に英国でレビュー済み
    Amazonで購入
    I am learning japanese so bought as a challenge. Hope it works out. Good quality, as expected. Thank you
  • GUERY Dominique
    5つ星のうち5.0 Excellente prestation
    2015年9月5日にフランスでレビュー済み
    Amazonで購入
    Achat réalisé pour une personne fascinée par le Petit Prince depuis sa plus tendre enfance. L'ouvrage en japonais, parvenu depuis le Japon, a fait l'objet de suivi de traitement de commande particulièrement rigoureux, parvenu dans un délai inférieur à l'annonce et conditionné de manière extrêmement soignée. Très satisfaite de ce livre magnifiquement illustré, comme des précédents acquis en diverses versions.
  • mireille cartron
    5つ星のうち5.0 Le Petit Prince
    2013年2月15日にフランスでレビュー済み
    Amazonで購入
    Un très beau livre envoyé en cadeau de noël a quelque d' aussi merveilleux que le petit prince de St Exupéri : le guitariste d' un groupe de rock japonais, c' est pourquoi il devait être en japonais pour qu'il puisse le lire et le comprendre . Merci pour la rapidité et le soin porté à l'envoi de cet article
  • Rachel
    5つ星のうち5.0 Yey!
    2013年3月26日にアメリカ合衆国でレビュー済み
    Amazonで購入
    I really love The Little Prince. Ever since my friend lent it to me in high school, I've never left home without my personal copy.
    I've been learning Japanese for five years now, and I decided to buy this copy to help me with my reading (since I'm at a kindergarten-ish level). Very nice. I like that its hard cover.